美術ばかりが
美術じゃない
けど

市川武史展
言水ヘリオ

「浮く彫刻」と聞いて、どこか奇異な
印象を受けないわけにはいかない。彫刻
というものは重量もイメージも重いと思
っていたからだ。初めて市川武史の「浮
く作品」をみてから約一年。その間に5
回の個展をみてきた。「浮く彫刻」の正
体は、特殊フィルムをつなぎ合わせて作
った袋の内部にガスを充満させたバルー
ンである。作品はいつでも浮いているの
だけれども、移ろって行く透明なその彫
刻は、はにかみと挑発の表情をたずさえ
不意に現れる。作品を前にしてまずこれ
は一体何を表現しているのだろう? と
いう疑問がわいてくる。だが、芸術がい
つでも作者の思いを表現したものである
とは限らない。それは、文学でも音楽で
も同様のことのはずだ。ただ「作品」と
「私」との関係だけが、まずそこに発生
する。
 今回の個展会場に入ってみると、大き
な空間にポツンと小さい「彫刻」が浮遊
していた。その瞬間私の全身を通り抜け
ていったのは、万物を構成する元素の総
攻撃であった。近づいたり離れたりする
私の前で、なつっこく無関心にフワーッ
と浮かんでは移動する「彫刻」はまるで、
水槽に放たれた一匹の小さな魚のよう
だ。ただ、決定的に違うのは、みている
私白身も槽のようなギャラリー内部にい
る、つまり作品と空間を共有していると
いうことだ。作家がこの小さな[浮く彫
刻」を会場に設置したのと同様、私もま
た市川武史展という甘い水におびきよせ
られてまんまとインストールされた一人
の観客なのだ。
 時を忘れて、何も考えず「彫刻」をみ
る。ギャラリーを巡っていてこのような
状態になるのは非常に稀なことだ。美術
に期待するものが「素晴らしさ」や「癒
し」などに限られるなら、市川の作品は
そのあまりの透明さゆえに見過ごされて
しまうかもしれない。だが、美と快、あ
るいは醜と苦といった因果律が不能とな
る極点で思考せざるを得ないとき初め
て、人間は光も影も経験することができ
る。「美術」という言葉に「美」がつい
ているからといって、きれいなものが美
術と勘違いするべきではない。また、日
常がいやなことばっかりなんだから美術
は美しいものであって欲しい、というの
も自分自身に対してあまりに失礼なもの
の言い方だ。美術には日々の生活と同様、
人の営みの全てがあるのだし、作品に接
することとは、自分を認識しては否認す
るという反復運動の原動力でもあるのだ
から。「LOVE」と「MOVE」。現代に浮
遊し始めた市川武史の彫刻を主語とし
て、対象への方向を暗示するこれらの動
詞が自動したとしても驚くにはおよばな
い。ただ、その方向が対象の不在に求め
られているのが現代である。不幸なこと
かもしれない。でも、豊饒を求めるあま
り現実から眼を背けてしまっては、作品
も単なる鑑賞物になってしまう。それも
また残念なことだと思う。
 市川武史は、4月19日から24日まで、
銀座のギャラリー21十4ANNEXで個展
の作品を展示するという。
          ことみずへりお
    美術情報雑誌「etc.」発行人

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