斎藤一典
市川武史(ギャラリィK)

「全ての書物は聖書の一部である」として、そこに同量のマイナスベクトルが有されていたと
するならば、同様に、全てのテクストはこの純粋でも彫刻でもない純粋彫刻について述べ
ていたことになるだろう.分母0の分子は浮遊しながら揮発し、ひとの世界観(そらのエクト
プラズム)に浮かぶ-在り続ける-もの.しかし、今回の『浮遊0』を前に言葉は回収されて
しまう.この空間も時間もない知覚状態に誘い込まれていると、どうしてひとは自分のこと
を見失ってしまうのだろうか、もしかしたら自分というものが元々なかったからなのかもしれな
いと、ついに意識を意識してしまった.でもそこに、たとえば脱力系トランス系へのスタンスと
か、変革などではないもっと当たり前の知覚の捉えなおしといった自分の中の経緯,または
どうしても辿りついてしまう地点という自分にとって見当たるものが、これ以外ない在り方で
認識することができたように思ったのだ.
とにかく、魅かれてしまうものがあるからOKなのか,それとも身の周りのフツーをわざわざだし
ているということも一緒に自分は直視できるのか、それだけでも見極めていい頃である.
そう思えたのだ.またそれは、「ポジティブ」「普遍性」「空き間」… 様々な機軸では掬えず
にいて本当は示そうとしたところのもの、 あるいは曖昧への仮託によって道具化されていた
曖昧を、重力による思考でありながら現実的でも超越的なのでもないものを含めて感じ
させたのだとも言うことができる.さて、後日TVでアラーキーが荒川を三途の川と呼んでい
たが、もしも『浮遊0』が新宿の街に浮かべば、そこは点滅をくり返すフラッシュライトのよう
に、彼岸になり此岸に なりするだろう.意識を発生させる原点、三遠の川であることは、
それが浮遊しながらも、彫刻があたかも異次元から来た異次元物であるというスタティック
な性質を現し、それゆえに装置たる目的化を相対化してしまうことをも告げている.つまり
意識にとっての重力というものを知った自由である.
ノストラダムスの予言てまるで、それがひとがいつか必ず死ぬにも関わらず発動したことから、
予言の終結によって錯覚を解消するマシーンであったのかもしれないと思う.
ところが『浮遊0』は、まったく別の当たり前で解かれない予言、終末論的ではない終末
論を呈示していたようだ.最初見たときは、これで自殺しても解脱できるとか思ってしまっ
たけど、この作品に対する認識が究極であって究極でないことはなぜか知っていた、
きっとどうしてもそういうものなのだろ う

.゛1宇留野隆雄コメント『知性の触覚’99それぞれの他者』大参照.


ささきあきこ
市川武史/ギャラリィK
今回の作品は細胞一個.外部に犯されることなく犯すことなく、かといって他に無関心
といったふうでもない様子で、空間をたゆたっている.独自の浸透圧を固持しながら.
「美術もまたまわりのすべてに接する透明な皮膜」-至言ですね.つまり薄皮一枚で
自らを固持しつつ交換する、美術ってそんな細胞膜かも.

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