李萬煥/彦坂尚嘉・共同企画の 「気体分子美術展《ビット》」の第一弾として、吉田暁子と市川武史
の二人展「ホワイトースチーム」展が六月四日から二十三日まで東京画廊で開催される。
この企画については、東京画廊のホームページに、詳しいデーターをのせている。
(『美術手帖』の二〇〇一年三月号五四、五五頁に、紹介記事がある。)
http://www.tokyo−garo.co.jp東京画廊ホームページ

 吉田暁子と市川武史は、二人とも愛知県出身であり、多摩美術大学に学び、互いに作家という関係での「同志」性を持ってきているという。暁子(ぎようこ)が日本画科、武史(たけふみ)が彫刻科である。暁子の両親はともに大学教授で、特に父親が哲学者ということもあって、暁子は美学や芸術理論に興味があったという。それ故の真摯な議論相手として、武史には暁子が力があり、ここ五年ほど濃密な議論を繰り返し、喧嘩もしてきたという。そして一九九六年から九七年にはプロジエクトも共有して来ていた。
 私は日本画出身の吉田暁子の作品を昨年のなびす画廊個展で見ているが、その時点で彼女の人気は高くて観客数も極めて多く、そのことは『美術手帖』にも書かれていたほどで、コレクターもついていて作品もよく売れていた。実際に画廊で見たものは、一見白っぽい非実体的な作品のようだが、私には実体的に見えて、「白いルノワール」と揶揄したくなった。音楽で言えば人気のあるモダン・アイ リッシューミュージックのエンヤのようで、彼女の音楽も非実体的な振りをした実体音楽である。つまり暁子の作品は官能的で、魅力ある何ものかが描かれているのである。しかし私は、世評受けの悪 い非―官能的で、非−実体的なものを、 真性の芸術であると考えているのである。
さて、昨日私は大阪へ日帰りしたのだが、ギャラリーKURANUKIでの暁子の大規模な個展を見てきたのである。暁子のアメリカ抽象表現主義(デークーニング系)の亜流絵画をアレンジしたような中小の抽象作品は、美術史的には日本画の遅れともいうべきポストーモダニズム作品であろう。日本旧画壇のオールスター展である「両洋の眼」展で、私はすでに日本画によるアメリカ抽象表現主義の作品は見ている。しかし暁子の抽象日本画作品は、それほどの完成度はない。購入したコレクターが、オークションや画商間の交換金で転売するといぅ、セカンドリィーマーケットに耐えられる完全に自立した強度性がなくて私は少し失望した。
 廊下にあたるスペースに展示されていた四枚パネルを蝶番でつないだ白い屏風状の作品は、人物を思わせるドローイングが手を抜いたように、ほとんど描き込まれずにあって、これも完成度という面では私は評価できないが、宗教画を思わせるところは、美術史的には評価できる。情報化社会の芸術は、再び宗教性と文学性、そして屏風形式を回復させる方向なのである。
 会場は大きくて、そのハメートルの高さの大天井に和紙を貼りつけ、薄い黄色の不均質な帯の流れを作った天井画は、独創性が無いわけではなく、晩年の大水浴図のセザンヌを彷彿とさせる構築性と空間性を孕んでいて、実体化はしているにしろ見事な力作で、美しく、なかなか良かった。東京画廊の二人展にはこの天井画シリーズを展開して欲しいと思った。
 建畠哲とのパフォーマンスも見たが、パフォーマスは最近始めたそうで、薄い和紙で詩を朗読する建畠を包んでしまうそれは、中西夏之の洗濯バサミのよぅな増殖を思わせ、しかし完全に包んでしまうことで実体化してしまい、クリストの亜流の作品に脱してしまった。ここでも「日本画的遅れ」によるポストーモダニズムになっていた。ちなみに建畠氏が最初に朗読した詩は「旅の遅延」であった。この「旅の遅延」を含む前半部分、特に 建畠晢氏の靴の上に和紙を貼る時とか、ズボンに最初に貼って行くところはスリリングで、相当に面白かった。
 日本画家・吉田暁子の作品は、良い面、優れている面を注視すると確かに面白い。和紙を貼るダイレクト制作の天井画やパフォーマンスは、技法的に相対的なオリジナリティはあって、生き生きとしていて刺激がある。未熟性の強い中小品でも、私が言う−絶対零度の美術−と呼ぶ原始平面美術ではなくて、きちんと透視画面で気体分子美術になっており、このことは高く評価できる。某美術評論家は「暁
子はひょっとしたら化けるかも知れないが、分からない」と言っていた。化けるためには、遅延のポストーモダニズムを逆立させられるかどうかだが、そのためにも私は彼女の団体展時代の初期絵画を見せてもらいたいと思う。そこに全ての秘密があるはずである。初心を忘れていなければ吉田暁子は、かならず将来「化ける」だろうと、私に期待させるところが彼女の魅力なのである。
 私は初めて市川武史を知ったのは一九九六年の「浮遊」の初個展で、親しく口をきくようになったのは九九年のセゾンアートプログラムのアートイングという連鎖個展で、私がコメンテーターをやったときである。その時の武史(たけふみ)の作品は薄い皮膜の風船を画廊空間に浮かべた静謐繊細なものであったが、風がひとつであることで実体化が起きてしまい、私は評価できなかった。ただ回顧的に見ると、武史はこの風船の作品の繊細さを多様に展開している。しかも日本のアーティストにしてはめずらしくそれらの風船がすべて保存さ
れてあるのである。そして記録写真の中には、非実体性の良質さがある。この良質さを含めて総合性があって、まとめていけば重要な作品シリーズになるだろう。
 今秋、ロンドンで有名なヘイワード・ギャラリーでの開催が予定されている「二十五人の日本人アーティスト展」へ、この風船作品の出品も決まっている。
 別に、お香を焚いたシリーズの作品があって、私はモリス画廊での個展は激賞する。文字通りの気体分子状態で、お香の煙で白くくすんだ空間は美しく、中にはいると、香のかおりに前身が包まれて、恍惚とした。 この薫りは家に帰っても身に焚き込められていて、何とも新鮮な作品であった。
 こう感動するのは実は私も香の作品を考えていて、大きな蚊帳のようなものを透明ビニールでつくって中で香を炊く作品であったが、実現する前に、市川にやられてしまった。お香の作品は、近代芸術の芸術概念そのものの否定として、極めて重要であると私は考える。ただギャラリー21十葉での展開は、お香そのものを彫刻のように作ってしまっていて、お里が知れたというか、実体化が起きていて良くなかった。
 もう一つ、セゾンアートプログラムのアートイングには、小さな機械を出していて、それがギターのリフレインを聞かせてくれるものであった。これが良い作品だった。音楽の導入も、近代芸術の解体と否定として重要な方法で、こうした展開にはエールを送りたい。この音楽の展開として、近作の音を使った個展(ギャラリー21十葉)は、二本のワイヤーをレールのように張って、そこに小さなスピーカーを二つ乗せチープな音の音楽を流していた。音楽も二千年前の言語楽譜を素材に独自に作曲し、ギターとコンピューターで演奏したもので、うまくいっており、私は評価する。
 彫刻家・市川武史は、いろいろ努力している割には、作品を売るということについてはそれほどうまくいっいなくて、日本型芸術家の構造欠陥性を持ってはいる。しかしそのスリムな感じは、逆に近代彫刻の桂桔から自由へ逃亡をしている故のもので、私が想像していたものよりは鍛えられていて、真摯なポスト・モダンニスト
で、柔軟性と展開力を秘めている。この調子で晩年まで浮遊し続けられれば、崇高さを獲得できるアーティストに成れるかも知れない。
 東京画廊の「ホワイト・スチーム」展では、暁子の「日本画のポスト・ モダニズム」と、武史の「彫刻のポスト・モダニズム」の二つのデユ工 ツトのズレが生み出すきしみの音を聞いて、類似した二つの表現の干渉縞を見てみたいものだと思っている。                               (○一/五/七 NH)

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